第一回 笹本恒子先輩(2017年春)
◆雨の鎌倉
小雨ぱらつく鎌倉に、笹本恒子さんに会いに行った。
笹本さんは、103歳の現役の女性報道写真家で、日中戦争、第二次世界大戦の頃を知る大先輩だ。ずっとお会いしたかった先輩に、お世話になっている方々にご縁を頂きやっと会うことができた。
「失礼します」
笑い声の聞こえる部屋のドアを開くと、笹本さんと姪御さんが笑いあっていた。
「今日は来て下さってありがとう。でももう、100歳を超えてますから、いつ死んでもおかしくないのよね。今もふたりで焼き場の話をしていたのよ、どこがいいかとかね!!(爆笑)」
そういいながら大爆笑するふたりを見ていると、笹本さんが100歳を超えているということがうそのように思える。
「そういう方ほど、大丈夫だって言いますよ!」
そう私が言うと更にみんなで大笑いした。ドアを開けるまで緊張していた私は、あっという間に、心が開いて幸せな気分になった。
◆写真を始めた頃のこと
若いころは画家になりたくて絵の勉強をしていた。カメラを初めて手にしたのは26歳の頃。
「昔は写真の展覧会はなかったし、写真家っていうのはなかったの。街の写真館はあったけど、新聞社でもカメラマンは重く見られなかったの」
芸術としては、写真よりも絵画が重宝されていた時代。笹本さんは、ある日マン・レイの写真を目にして愕然とする。
「そうか、写真にもシュール・レアリズムの世界があるんだなと思ってね」
そんな笹本さんに写真をやらないかと勧めたのは毎日新聞(当時は日日新聞)の社会部にいた林謙一さん。その後独立し、日本で初めて報道写真事務所を作った人でもある。当時日本ではフリーの報道写真家は少なく、また女性は一人もいなかった。一方アメリカではLIFEの表紙を女性写真家が撮影していることを知り、一晩考えて、思い切ってこの世界に飛び込んだという。
「最初は先輩の写真を来る日も来る日も見てましたね。土門拳や木村伊兵衛がいい写真を沢山撮っていた時代です」
◆ライカからスピグラ!
ある日ライカにフィルムを入れてくれて、日比谷公園で写してこいと言われた。撮ってきた写真はすぐに現像し、構図が良いと褒められたのが救いだったという。そののち、ハーフサイズ(名刺サイズの写真)のスピードグラフィック(当時はスピグラと呼ばれた)カメラをアメリカから笹本さんのために取り寄せてくれて、距離計をフィートからメーター換算しながら必死で撮影。そんな風に、仕事と並行して写真の勉強をスタートしたという。
その頃、仕事以外に撮っていたものは、ありますか?と問うと、
「仕事だけで精一杯。絞りも露出もわからず、覚えるのも大変だった。写しながら勉強していました。そのうち記事も書けるようになって、写真と記事の両方担当していました。当時の新聞社には両方できる人はあまりいなかったので重宝がられましたよ」
◆春の撮影で思い出すこと
「桜の散るところが好き。春にはよく撮影で港の見える丘公園に行きました。
丘に上ると外国船が一杯見えてね、あの周辺は桜が古木で、散歩もいい。
横浜は高低差があるからいいのね、そして港があるからね」
そういえば、小学校で習った唱歌を覚えていると言って歌を教えてくれた。
~駒のひづめも 匂うまで
道もせに散る 山桜かな
しばし眺めて 吹く風を 勿来(なこそ)の関(せき)と 思えども
効(かい)なき名やと ほほ笑みて
ゆるく打たせし やさしさよ~
(「八幡太郎」尋常小學唱歌/大正元年。作詞作曲:不詳)
「桜が散っている中を、馬に花びらを踏ませないようにして歩いたという歌ね」
笹本さんにとって春はどんな季節なのか、聞いてみた。
「春は別れと出会いがある。散る花もあり、咲く花がある季節ね」
◆ポートレートは魂の交流
笹本さんは著名な方々を沢山ポートレート撮影している先輩。大掛かりなライティングやポージングは好まず、カメラ一つで撮影に行く。笹本さんの撮影したポートレートを沢山見れば見るほど、それらはその場で光と空気を読み、その人らしさを瞬時に感じ取って、その人らしい姿勢で、その瞬間を自然に撮影した写真であるように思えた。素敵な写真だった。
人を取材に行くとき、何を大切にしていますか?
「やはり魂の交流が大切ですね。でも、被写体と写真家の相性もありますね」
被写体が、心を開いてくれない人だった場合は、どうしますか?
「仕方ないので、こちらから色々と話しかけますよ。一方で、会ったとたんにピューっと好きになっちゃう人もいるわね」
取材撮影に行って、自分では遠慮がちに撮影して戻ってきたら、後日、被写体の方から葉書が届いて「永久の友達に、なれそうな方でした」と書かれていて嬉しかったこともある。それは料理研究家の阿部なをさん。その後、ある友人を亡くし悲しんでいた笹本さんを励まし、「もう少し涼しくなったら二人で朝まで飲み明かしましょう」と言ってくれた3日後に、その阿部さんも亡くなってしまった。
「あの時は涙が止まらなかったわね」
「きらめいて生きる明治の女性たち―笹本恒子写真集」や「昭和を彩る人びと 私の宝石箱の中から100人」等、数々の本を発表し、2016年9月には、世界的な写真賞「ルーシー賞」で、生涯を通じて写真界に貢献した方に贈られる「ライフタイム・アチーブメント部門賞」を受賞。「厳しい時代を、自立心を持って生き抜いた女性を写し出した」と評された笹本さん。
美しい人だなと思った。
柔らかに微笑む包容力と、凛としたものを同時に内包し、私の目には、眩しかった。
◆これから発表する写真たち
「写真家として生涯現役でいたいなら、年齢は言ってはダメよ。たとえば70代、80代になっても、仕事関係者に、年齢で技術的な心配をかけることなく、自分の写真の良さで評価してもらうこと」笹本さん自身、96歳になって初めて、ぽろりと年齢を話して驚かれたという。
そんな笹本さんは9月1日で103歳になられたばかり。「お誕生日、おめでとうございます」というと笹本さんは、「今けがをしている脚が治ったら、現在取り組んでいる撮影の続きをやって、近年中に発表したいの」とおっしゃった。何を撮っているのか聞きたかったが、一瞬考えてやめた。笹本さんが新しい作品を発表するときまで、楽しみに待つのがいい。
写真家として笹本さんの後輩であることが、改めて、とても嬉しく感じられた春の日だった。
笹本さん、ありがとうございます。
(2017年春 鎌倉にて)